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[旧暦の誕生]
The birth of Japanese old calendar

日本では明治6年1月1日からでグレゴリオ暦(現行暦)に改暦されました。

それまでは江戸幕府天文方の渋川景佑らが完成させた「天保暦」(1844-1872年)が使用されていました。
因みに渋川景佑は映画で有名な渋川春海の8代後の天文方です。
天文方は長寿に恵まれないようで渋川家は養子縁組が多く、春海と景佑に直接的な血縁関係はありません。
(「天保暦」は、中国の同じ漢字の暦「天保暦」(551-577年)と区別して「天保壬寅元暦(てんぽうじんいんげんれき)」とも呼ばれます。)

天保暦は現行暦の前に使用されていた暦である為、旧暦と呼ばれます。

厳密にはいわゆる旧暦と天保暦は別物です。
例えば、天保暦は不定時(1刻の時間の長さが季節によって変わる)を採用していますが、旧暦では不定時を採用していません。
また、日本の標準時も天保暦では京都基準で、旧暦では協定世界時のUTC+9で明石基準など、
基準となる天文上のデータなど様々な違いを挙げていけば、天保暦と旧暦は別物となります。

しかし、いわゆる日本の「旧暦」は現代の天文学上のデータを使用して天保暦のルールを使用して日付を決定しているので、
ここでは、旧暦を天保暦としています。よろしく、ご了承ください。

現行暦への改暦は、当時、近代化を強く推し進めなければならない明治政府が、急いで強行しました。
明治5年11月9日(1872年12月9日)に改暦を布告し、わずか23日後の1873年1月1日から現行暦が開始されました。

(前年の明治4年に役人の給料を年俸制から月給制に変更されましたが、明治5年の翌年にあたる明治6年は、天保暦で6月に閏月があり、
1年が13ヶ月で13回の給与支払が発生してしまいます。
当時、財政が逼迫していた明治政府に対し、参議の大隈重信公が明治6年のタイミングで現行暦に切り替えることを提言したそうです。
この提言は、
①現行暦明治6年1月1日が天保暦5年12月3日にあたり、明治5年の12月は2日間しかない為に12月分の給与は支払わないこと、
②現行暦では閏月がない為、閏6月分の給与も支払わずに済むことで、①と合わせ計2か月分の役人の給与が支払わずに済むこと、
③現行暦導入とともに休日制度の変更し(1と6のつく1日、6日、11日、16日、21日、26日の月計6回年72回(閏月がある年は更に6回追加)から、
日曜休日の年52~53回に変更。)、休日を減らすこと、
④西洋との外交交渉上、西洋と同一の暦を使用することが望ましいことから採用されたそうです。
本当は、特に①と②が明治6年の現行暦採用の要因では?と言われています。)

一般人には、それまで慣れ親しんでいた天保暦をこのスピード感で捨て去ることはできません。
天保暦は旧暦として、六曜や占い、また伝統的に残る旧暦をもとにした行事など、現代にまで使用されてきました。

但し、旧暦は政府が管理していない為、「正式な旧暦」、「正式な天保暦」というものは存在しません。
一般人としては国立天文台が掲載してくれている情報などを参考するほかありません。

本来、この天保暦のルールが完璧なものであったならば、政府が管理していなくとも問題はないのですが、
完璧を追い求めすぎてしまったがゆえに、ほころび生じてしまいました。

そのほころびが、いわゆる2033年問題です。
このほころびに対する対処方法を示してくれる正式な機関が存在しないことも、この問題をさらに複雑にしています。